【第二代・秋根久太支部長】
 さて、二代目の秋根久太先生はその後直ぐに支部長の役を引き継がれた。秋根支部長は明治36年3月30日・福岡は下月隈生れ、大正6年席田小学校、11年福岡商業学校を82名の同窓生とともに卒業、昭和2年東京の明治大学法科専門部、5年には明治大学英法科卒、同年には高等試験司法科試験に合格、昭和6年に弁護士登録とその履歴書に誌されている。
 先生が日本銀行の就職試験を受けられた時「貴君は銀行マンより法曹界が適任だろう」と試験官から言われたとか、どうもソロバン違いも甚だしいと笑いながら冗談がとてもお上手で、東新橋・岩田ビルの急な階段の上の三階事務所に昼から集まった若い後輩の同窓生達がビールをご馳走になったのも度々のこと、そして、幾度かの合同同窓会にはその都度に、寸志の大袋を戴いたものである。先生の記億力は職業柄以上に抜群そのもので、福商時代、外人の女教師から学んだ英語リ一ダ一そのまま発音まで真似て、滔々と暗唱を続けられた。更に吉田良三著『商業簿記』の記載通りに、その目的とは云々と暗ずといった調子である。しかも、得意な学科は数学で弁護の法廷では数式で考えては絵解などするのだよとおっしゃっていた。事務所の黒板に、プラスとマイナスの問題を書いてはマイナスの2乗がプラスになり、3乗がなぜマイナスになるのか。「Oより小さいか、少ない数字を掛け合わせてそれが1より遥かに大きくなり、多くなる結果、即ち(一3)X〈一2)が(一6)でなくして十6になることが説明できるかね。一と一とが十になることは絶対にないよ」と私達に説明を求めたり、また数学クイズを 出題しては、独りで、にやにやとされていた。
 福商で、数学の授業が少なかった私達にとっては常に困る問題ばかりでした。先生の面白い算術の問題・解き方』何れかの機会にご披露したいと思います。また『数の数え方』では、壱・弐・参・四・五・六・七・八・九・拾から次に百・千・萬・となり、萬倍の次に億がきて、その萬倍が兆となり、京・亥・序・乗・満・正・載・極・阿曽儀・那由多・不可思議・無量大類となって終わりだ.、と一我々の知らないことばかりを伝授されていた。なお、原稿で戴いたままの『飛騨の匠・左甚五郎の彫った鼠』その他をお預かりしているが、先生の生前に紙上発表もできず、今なお悔やまれてならない。先生はよく庇理屈も云われた。「生前」といえば、生まれる前でこれでは可笑しい。「死前」と云うのが自然だよと。そういえぱそのようにも聞こえるが、「生後」といえば正語、「在生中」とはなかなか云わないようだ。間に合わず、誠に申し訳ありませんと深くお詫ぴをしている次第であります。先生の支部長は、昭和53年・1978年から平成5年・1994年までの16年間であった。翌年、平成6年の総会当番幹事51回生のとき、半蔵門の「ふくおか会館」会場で秋根先生に記念品を次の石村新支部長から贈呈して戴くこととなった。「馬が好きだ」ということで、三菱銀行を経てハーマンインターナショナルの副社長・36回生の原大二氏に従って上野辺りなどを見て回ったことがある。とても唐三彩には届かず、それなりの勢いよい緑色原石彫の馬を求めました。この原先輩こそ平成4年版の『福商会東京支部名簿』の作成功労者なのである。資料整理の私を励まし自らの手でパソコンを駆使されたとは驚いた次第でした。この名簿(17回〜90回・885名)も古書で所持する方も少ないでしょう。新しい名簿の作成をなんとか約束したいと思っているところです。秋根先生は、平成11年までいつもお元気で総会にはご参加されていました。先生が「大正6年〜大正10年ころまでの福商の応援歌」記憶と記して持参された自筆の紙片がいま残っている。しかし、誰も関心を寄せず、それは余りにも知らない遠い昔の歌詞でした。先生の毛筆も、また勢いのある書字でした。